「住吉」は元々「澄江(すみのえ)」といい、澄んだ入り江の事をいいました。
『古事記』『日本書紀』の日本神話では伊邪那岐命が黄泉の国から帰った際、筑紫の日向の橘の小戸で禊ぎ祓いをした時に生まれた神様です。底筒男命・中筒男命・表筒男命とはその禊ぎで水底・水中・水上にておこなった時に生まれた神様です。
『日本書紀』巻九によれば、住吉大神はもともと「日向国の橘小門の水底に」いた神であり、海龍王国という「常世」異界から来た神という位置づけであり、水底・海底が「常世」という古代、海のかなたにあると考えられた不老不死の国が後に「龍宮」と言われる様になりました。
龍宮は「海宮、龍宮城」とも言い龍神の住む所と言われてます。
そして龍宮は海にある事から、「海=産み」であり、龍宮は「子宮」を表し水底にある龍宮に行く事は胎内回帰とも言われております。
水波能女命(みずはのめのみこと)は水を主宰する神であり、「水が這う・走る」という意味で龍神とされています。
龍は一般的には水神のイメージが強いですが、人々の言葉や想いを理解し、あらゆる万物に宿っているとされ、さらには心の中にも鎮まり、心そのものであるとも言われております。それは『管子』という書物の第十四「水地第三十九」に、
《龍は水の中で生まれ、五色に彩られながら泳ぐ。それゆえ「神」なのである。
小さくなろうとすれば変身して虫ほどにもなり、大きくなろうと思えば天地を覆うほどにもなる。
天に上ると雲より上に、下ろうとすれば深い泉にも入る。
変幻自在で「日無く、時無き」、これを「神」という。》
とあり、五色は五行(木火土金水)の事で龍は変幻自在であり時空をものともしない
超越的な存在であると同時にこれは心そのものを表しています。
また、龍は同じ発音である「流(りゅう)」でもあり、あらゆる流れでもあります。
水の流れ・人、社会、時の流れ等、目に見える物から見えないものまでです。
当社の不動明王は石仏で制作年代は不詳(江戸時代だとも言われております)です。
不動明王の姿としては一般的には右手に利剣「大慧刀(だいえとう)」を持ち、左手には羂索を持ち、光背には火焔(迦樓羅炎(かるらえん))があり、右(向かって左)に制多迦童子(せいたかどうじ)、左(向かって右)に矜羯羅童子(こんがらどうじ)を従えてます。
元々当社の不動明王もこの姿でしたが、時代と共に制多迦童子・矜羯羅童子の顔が無くなり、そして不動明王の左腕までも無くなってしまいました。時には憤怒し、時には慈悲憐れみの心を持つ不動明王は身代わりとなって衆生(生ある全ての存在)を守ります。不動明王の両目の「天地眼」で世界を見通し、大慧刀で諸々の悪病災いを切り祓い、火焔で煩悩を焼き尽します不動明王は広大無辺のご利益を持っております。古くは国家安泰・武神・軍神とされ、近年では厄祓・交通安全・家内安全・・・等等です。
不動明王は顔は憤怒の表情ですが、その心は厳しく優しさに溢れたものであり、信仰される理由の一つであります
弁財天は時代と共にあらゆる神仏と融合し、「弁財天根本式」には『弁財天は八大龍王と示しては四海に恩波を注ぐ・・・。』とあり、弁財天にある八本の腕は八大龍王、さらに弁財天自身の頭をも龍として九頭龍大権現、八識、八大観音(如意輪観音・馬頭観音・准胝観音・聖観音・千手観音・十一面観音・不空羂索観音・白衣観音)の総体を表すとされております。
八大龍王とは其の名の通り、八首(八人)の龍王の総称であり数多い龍王(龍神)の中の有力な王です。八大龍王は弁財天の秘体だともいわれ、「護法善神」といい、あらゆる物事を守護する役目です。特に有名なのは「法華経」に出て来る八大龍王ですが、その他の経典では異なる龍王が八首出て来る場合もある為、決まったものではありません。
このように稀にみる複合神となり信仰の深さを物語っております。
白龍は正に白い龍の事でどの龍よりも早く飛ぶ事が出来ると言われております。白龍は太陽の事を表し、7色が合わさった白光(八光)です。
白龍(白蛇)は弁財天そのもの、または化身とも言われており日本独特の神様「宇賀神」とも言われております。このような事から白龍と弁財天との習合がされました。
また、弁財天は八大龍王であり、九頭龍である事から、龍神信仰・観音信仰そして弁財天信仰が結び付いたのが『白龍弁財天』です。